芦屋の里

 昔、男が、摂津の国、菟原の郡、芦屋の里に、領地があったので、行って住んだ。

昔の歌に

 葦の屋の灘の塩焼きいとまなみ 黄楊の小櫛もささず来にけり

 (芦屋の灘の製塩は忙しくて暇がないので 黄楊の小櫛も挿さないで来てしまいましたよ)

と詠んだのは、この里を詠んだのだった。ここをなあ、芦屋の灘といった。

この男は、中途半端な宮仕えをしていたので、

それを頼って、衛府(えふ、都や宮廷の警護をする)の次官達が集まってきたのだった。

この男の兄も衛府の長官だった。

その家の前の海のあたりを遊び歩いて、

「さあ、この山の上にあるという、布引の滝を見に登ろう」と言って

登って見ると、その滝はふつうの滝とは異なっていて、

長さ六十メートル、広さ(幅)十五メートルほどの石の表面を

白い絹で包んだようであった。

そういう滝の上部に円座(わろうだ、藁を編んだ丸い座布団)の大きさで突き出た石があった。

その石の上に走りかかる水は、小さな蜜柑や栗の大きさでこぼれ落ちる。

そこにいる人に皆、滝の歌を詠ませる。

例の衛府の長官が、最初に詠んだ。

 わが世をば今日か明日かと待つかひの涙の滝といづれ高けむ

  (自分の時代を今日か明日かと待つ甲斐がない涙の滝と、峡谷のない滝とどちらが高いだろう)

主人が次に詠む

 抜き乱る人こそあるらし白玉の まなくも散るか袖のせばきに

  (紐を抜き乱した人がいるらしい、白い宝石があたり一面に散っているのか、身分低く袖が狭いので) 

と詠んだので、側にいる人が笑ったのであろうか、この歌を賞賛して終ってしまった。

 帰ってくる道が遠くて、亡くなった宮内卿もちよしの家の前にくると、日が暮れてしまった。

宿の方を見やると、海人の漁火が多く見えて、例の主人の男が詠んだ

  晴るる夜の星か河辺の蛍かも わが住む方の海人の焚く火か

  (晴れている夜の星か、河辺の蛍だろうか 私の住むほうの海人の焚く火だろうか)

と詠んで、家に帰ってきた。

 その夜、南の風が吹いて、波がとても高い。

 翌朝、その家の女の子供達が出て、浮いた海藻が波で(浜に)寄せられたのを拾って

家に持って帰ってきた。女の方から、その海藻を高杯(たかつき、足のついた食器)に盛って、

柏の葉を覆って出してきた、その柏に書いてあった。

  わたつうみのかざしにさすといはふ藻も 君がためにはをしまざりけり

  (海の神が髪飾りに挿すと祭る藻も あなたのためには惜しまないのですよ)

田舎の人の歌としては、十分であろうか不十分であろうか?

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昔、海人が塩焼きをしたという芦屋も、今は別荘地であり、高級住宅街だ。

著名な小説家や画家の記念館があったりする。

阪神大震災で被害が大きかったので、家は随分建て変わったようだ。

「伊勢物語と芦屋」という展覧会が平成十二年秋に芦屋市立美術博物館で行われた。

芦屋市美術博物館は南側の庭が道路から見下ろされるようになっていて、際まで松があり、

その道路がまるで、大和川の堤防を思い出させるような感じなので、

なぜだろうと思って、道路に上って理由がわかった。

そこには大和川にはなく須磨の浜などで見るもの、つまりコンクリートの護岸に絵が描いてあった。

元々はその道路が防波堤で、その先は埋立地だったのだ。

 

芦屋は、風光明媚なところだ。六甲の山の襞がはっきり見え、そして、振り向くと海がある。

防潮堤のはしに灯台が見え、防潮堤の間にのぞく水平線の向こうに想像力を掻き立てられる。

芦屋川沿いの曲がりくねった松。

「押し照るや難波」と詠まれた大阪の夕景とはまた違った、

不思議な夕暮れを見ることができる。

正面からではなく横から夕陽が射すのだ。

それは、神戸や芦屋の夕景を知る人にはわかるだろう。

浜から山に向かえば、山の横顔に光と影が射し、

布引の滝のある神戸の山々から大阪湾を見ると、

右手から日が射して、海の向こうには淡路島の影がかすみ、

正面は海が深い青で、

陸地が左手に弧を描いて白や緑に輝いて続く。

(気象条件がよければ、和歌山は無理でも、堺の仁徳陵など見えるという)

明るくてカラッとして、まるでアメリカか地中海か、どこか外国へきたようだ。

(そういえばマックナイトの絵に神戸を描いたものがあったと思う。)

この景色を見ると、たいていの人はそこに住みたくなる。

夜景も大阪から神戸が一続きに輝いて、六甲はドライブのデートスポットだったりする。

昔、難波のあかりは芦屋から見えたのだろうか?

芦屋市立美術博物館の周りを散策していて、浜昼顔を見つけた。砂浜に咲く。すこしなつかしい。

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 第八十七段  2001年6月13日 内田美由紀