住吉行幸

昔、帝が住吉に行幸なさいました。

   われ見ても久しくなりぬ 住吉の岸の姫松幾世経ぬらん

  (私が見ても、長い時間が経った。住吉の岸の姫松は何代を経てきたのであろうか)

御神が姿をお現しになって、

   むつましと君は白波みづかきの久しき世よりいはひそめてき

  (仲睦まじいと帝は知らない、神の瑞垣の遠く久しい時代から帝を祝い初めていたのだ)

 住吉に行幸なさるのは、住吉神社(今の住吉大社)があるから。天皇と関わりが深い神社で、

よく知られていることであるが、住吉の歴代の神官の津守氏の氏神は、住吉ではない。

古事記・日本書紀に神功皇后(息長帯比売、おきながたらしひめ)が招請したことが見える。

その記紀に記された話は、本当だとすれば、かなり生臭い話で

彼女が朝鮮を攻めて九州から戻ってくるとき、先に夫の天皇が急死していたから近畿の勢力が反乱を起こして、

それに対抗するために、九州勢を引き連れて帰ってきた。

(日本書紀ではその神主が依網吾彦男垂水とある。依網吾彦は、住吉の南東、我孫子を支配した昔の豪族)

その九州勢の本拠地として、住吉に、九州の神を招請した、と読める。うがちすぎだろうか。

彼女が招請した場所は、大津の渟名倉の長峡とあるが、

確かに、大阪の住吉には、上町台地を越えなければならないために、

深く細い川(細井川、下流は住吉川)があって、長峡と言う地名もある。ただし、

神戸にも住吉も住吉川もあって、元住吉神社がある。なかなかやっかいだ。

 

個人的には住吉にはいろいろ思い出がある。住吉神社に何かにつけお参りに行っていたうえに、

実家は住吉区だったし、母の田舎も家の横が鎮守の森で別の小さな住吉神社があった。

・・・妹が生まれる前だから3歳ぐらいだろうか、田舎へ行くとき、神戸の住吉駅で

「すみよし〜、すみよし〜」という放送に、国鉄(!時代ですね)の電車から反射的に降りそうになった私を、

母が「違う、違う」と言って、腕を引っ張って引きとめた。

私も、(神戸の)山が見えたので、「ああ間違えた」と思ったが、

なぜ、「住吉」がいくつもあるのだろうと、幼心に思ったのが忘れられない。

 

さて、伊勢物語に戻って、この段では、

帝になりかわって、業平が「われ見ても・・・」の歌を奉ったと解釈されている。

そうでないと業平の出番がないのだ。

ところが、広本と呼ばれている伝本では、業平がおまけになっている。この形は古い物らしく、

平安時代の注釈『顕昭古今集序注』に、広本と同じ形で載っている。

そちらもご覧あれ。→住吉行幸と業平

伊勢物語 2002年6月2日作成 内田美由紀