住吉行幸と業平 (赤膚山)

昔、帝が住吉に御幸なさったときに、詠んで奉りなさった歌、

   われ見ても久しくなりぬ住吉の岸の姫松幾世経ぬらん

  (私が見ても、長い時間が経った。住吉の岸の姫松は何代を経てきたのであろうか)

御神が現れなさって

   むつましと君はしらじな みづかきの久しき世よりいはひそめてき

   (仲睦まじいとあなたは知らないのだろうな、瑞垣の遠く久しい時代から帝を祝い初めていたのだ)

 このことを聞いて、在原業平が、住吉に参詣したついでに

   住吉の岸の姫松人ならば幾世か経しと問はましものを

   (住吉の岸の姫松が、もし人であったなら、何代経たのかと尋ねたいのになぁ)

と詠んだところ、翁で身なりが悪い者が出てきて、歌を誉めて返した歌

  ころもだにふたつありせば赤膚のやまにひとつはかさまし物を

  (着物さえ二つあったならば、何も着ていない赤膚の山に一つは貸したいのに貸せないよ)

と詠んで、消え失せてしまった。後で思うと、御神で(なぁ)いらっしゃったのだ。

―本文は顕昭『古今集序注』による―


本文によっては最初の帝に平城天皇と注がついている。帝の歌は

問答の歌で、「住吉は一体、幾つの御世を経てきたのか」という質問に、神が答える体になっている。

だから、神の歌は本来、年代を表していると考えるべきだろう。

瑞垣は神の垣根なので、ただ、単に神代の遠い昔と考えられてきた。

が、天皇の御代は初期では、宮の所在地で呼ばれることがある。例えば、万葉集巻一にあるように

「泊瀬朝倉宮御宇天皇代 大泊瀬稚武天皇」、また、有名なところでは

「近江大津宮御宇天皇代 天命開別天皇 謚(おくりな)曰天智天皇」

「飛鳥清御原宮天皇代 天渟中原瀛真人天皇 謚(おくりな)曰天武天皇」

また、古今集の「ならのみかど」は仮名序の記述の時代が合わなくて、どの天皇か問題ではあるが、

基本は奈良の都にいた天皇を指す。

 ・・・・・・では「みづかき」の代の天皇は誰か?

  瑞垣宮の御宇、これは記紀に載っていて、日本史では伝説時代だが、有名な天皇だ。

日本書紀で、崇神天皇は、磯城の瑞垣(みづかき)の宮(古事記では師木の水垣の宮)に宮を移し、

御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)と呼ばれたとあり、この天皇の時、大田田根子などに命じて

八百万の神を祭ったとある。「久しき代よりいはひそめてき」はこれを言っているのだろう。

 

 業平のときに現れた翁の歌も、年代を表すはずだがわからない。

ただし、「赤膚の山」は今もあって、奈良の五条山のことで、陶芸の赤膚山焼で知られている。

ここの焼き物は、垂仁天皇のとき、野見宿禰が埴輪を作ったことで土師臣という名前を賜り、

さらに埴輪を作る地を賜ったことに始まるという伝承をもっている。

また、桓武天皇の時代(続日本紀、天応元〔781〕年六月二十五日)には、

土師宿禰らが、野見宿禰の故事を述べて、土師を改め、居地の名を取って

菅原(「菅原」は、赤膚山の北の地)の姓にしたい旨を述べて許可を得ている。

(言うまでもないが、この人々は菅原道真の先祖である)

野見宿禰の伝承が、桓武の時代に菅原の地に生きていたという点から言えば、

そのすぐ近くの赤膚の山が垂仁の時代を暗示すると考えられないこともない。

記紀の中の垂仁天皇は、瑞垣宮に生まれ、崇神天皇の後をついで神祇をおさめ、

伊勢国に斎宮を立てた天皇である。

 

最初この頁を書いたときに、記紀の記述から平安時代にはこれらの時代のことを

少しは推定できただろうというようなことを書いたが、

その後いろいろ考えたり本を読んだりしていると、

古今集で貫之が奈良の帝について後世の論争を招くような記述をしていたり

平安時代に古墳の被葬者がわからなくなって調査が行われていたりと、

平安時代の歴史認識についてはなかなか不安がある。

歴史解釈には、その時代の人の歴史認識が現れる。特に、史書はそれを著した側の論理で書かれる。

そこから考えると、この段は神の名の元に妙に歴史認識を表明しているようなところが

記紀の類似品のようで、気になる話ではある。

伊勢物語 2002年6月2日作成  2006/09/18 00:45:51改訂 内田美由紀