伊勢物語の時代   

伊勢物語 (内田 美由紀


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嵯峨天皇(786〜842)

嵯峨天皇は、業平から言えば、母方の伯父です。業平の父方の大叔父でもありますが、

桓武が外戚扱いとした百済王の関係で、嵯峨天皇は、業平の母方をよく知っていたでしょう。

『伊勢物語』には嵯峨天皇が出てこないのですが、

業平は、嵯峨天皇がいなければ、生まれてこなかったような両親のめぐり合わせですし、

嵯峨天皇が亡くなった結果、承和の変が起こって業平は父・阿保親王を喪うことになるので、

『伊勢物語』において、嵯峨天皇は陰の大物であり、背景の基調となるべき人物と言えます。

 

嵯峨自身は長岡宮ができたころに生まれ、幼くして母を亡くし、七歳から平安京に移りますが、

桓武朝のこのころの尚侍が百済王明信でした。百済王の本拠地は交野(現在の枚方)です。

交野は長岡のすぐ近くで、船ならあっというまに着いたでしょう。

嵯峨天皇は平城天皇の同母弟ですが、十二歳も年が離れていて、

母・乙牟漏が亡くなったころには、安殿親王(平城)は皇太子であり、当時の結婚年齢で、神野親王(嵯峨)は幼児でした。

平城宮で育ったといっても差し支えない平城天皇と、長岡宮と平安京で育った嵯峨天皇では、

育った地域も取り巻きの貴族も、まったく違っていた兄弟だったと考えられます。

嵯峨が皇位についたときの事情も、また平城上皇が奈良へ帰ろうとしたときも

平城京に基盤のある貴族たちと、平安京に移った桓武の晩年に近侍した貴族たちとで争いがあったであろうことは、

下賀茂神社への斎王を嵯峨天皇が始めた由来から、自明のことでしょう。

嵯峨天皇は桓武天皇と同じような行動様式で、狩りをし宴会を催して、諸臣をとりまとめたと思われ、

「とばり帳」(催馬楽「我家」)も断らなかったのか要求したのか、48人の皇子女がいます。

親王・内親王と源氏とに分けたのは、嵯峨天皇なりの基準が明確にあり、 

源の定の処遇についての淳和と嵯峨のやりとり(拙著P.267〜268参照)がなかなか興味深いところです。

 

嵯峨が位を降り自分の子の仁明を皇太子にして、淳和天皇(大伴親王)に位を譲ったのは、平城が亡くなる前で、

それから約20年間、嵯峨野に引きこもっていました。

決しておとなしく引きこもっていたとは思えません。もちろん狩りや宴会などは記録に残っています。

しかし、もし私が嵯峨上皇なら影武者でも置いて、旅に出たと思うのですが。

なにしろ遣唐使だった空海や最澄を直接知る天皇ですし。

いまでこそ嵯峨野は観光地でかなり宅地化も進みましたが、30年ぐらい前はもっと竹藪の深い鄙びた田舎でした。

なんで京都のはずれの嵯峨野なんか(失礼)に引っ込んだのだろうと、地図を眺めていて、気が付きました。

嵯峨野は桂川を遡れば保津峡を通って亀岡に出ます。

亀岡から園部を経て綾部から西舞鶴へ行けば、もうそこは日本海です。

(保津峡から山道をたどれば距離は短縮して、グーグルで徒歩81キロメートル;途中馬も舟も使用可能)

人目の多い淀川沿いや琵琶湖周辺に比べれば、裏道です。

お忍びをやったかやっていないかはわかりませんが、嵯峨野では周りは上皇の身内ばかりですよね(笑)

 

 

 (伊勢物語 2015年04月05日 更新 内田 美由紀