年末です。来年度はどうも大変なことになりそうで、困っています。
今度、府教委の研修で「少人数受け入れ校の対応」について体験を話すことになったのですが、
それというのも、そういう学校が増えてきたからという話です。ひょっとして本校にも来年度、
日本語を少ししか話せない生徒がもっと受験しに来ることになるのでしょうか?
しかし、異文化交流はたいへんです。
今年、ボン・ジーア、ボア・タルジ、ボア・ノイチから始まって、
「ヴォセ・テン・キ・レヴァール・ウン・リブロ(あなたは本を持ってこなければなりません)!」と生徒に
言ったり、「オブリガーディシマ!(本当にありがとう)」とポルトガル語の先生に言ったりしたものの、
でも私自身は「エストゥダール(勉強する)」という動詞すらまだ変化させることができません。
もちろん、私自身が学校でポルトガル語を習っているわけではありませんし、
下手なポルトガル語は生徒には迷惑なだけなので、できるだけ使わないようにしているのですが、
「そんな簡単な日本語がなんで覚えられないの?」と言う前に、わが身を振り返るので、
勉強した甲斐は一応ありました。
日本語教育では、生徒の国の言葉を覚える必要はないといわれていますが、
母語の考え方で日本語を捕らえようとするセミリンガルは、しばしば訳がわからなくなるようなので
どこでひっかかっているのかは、こちらがその子の母語を勉強すると分かりやすくなりました。
「イール動詞(行く)」を勉強したとき、それが未来を表す言葉にもなるというので、どおりで「来月」を
パッサーダとか言い出すはずだと思いました。「行く」と「来る」は逆だからという発想のようです。
よくアニメでは日本語が世界標準になっていたりしますが、もし為政者がそうしたいなら、
日本語教育や国語教育をしっかり打ち立てるのではないかと思うのですが、
(日本は、法制上や判例上かなり保守的な国なので、そう思ってしまうのですが)
むしろ国立国語研究所がなくなるという噂も聞こえてきて、本当なのかしらと驚くとともに、
過去の日本の外国での愚行を思い出すと、英語標準になったほうが平明でいいのかも
と思ったりして、最近のバイリンガル教育の行く末を見たいような気もします。
バイリンガル教育の未来はさておき、国語で習うことや国語学で積み上げられてきたことと、
日本語指導で教えることや日本語教育の蓄積とは、それぞれ、スタンスが違うのですが、
これからどうなっていくのでしょうか?
そのうち、「古典」というとギリシャ・ローマやラテン語を言うようになったとしても、
日本の古典(古文・漢文)が忘れられるようなことがないように願いたいものです。
十一月のひとりごとへ