『東区史』巻一口絵 石山(現・大阪城)周辺 探索

石山周辺で、上(東)から順に見えるものについて資料をあげていきます。  →地図を見る

は私に付けた注です。  2008年03月25日 更新 


蒲生野 ※現在の蒲生付近。 志貴田 現在の鴫野西・鴫野東付近か。天王田 ※天王田(てんのうでん) 濱 ※中浜・東中浜 本庄 ※中本・東中本付近。

天王寺跡 ※現在の地図なら大阪城公園のグラウンドやホールのあるあたりに描かれている。

 …今井啓一氏の「四天王寺玉造創始考」(同氏著『秦河勝』綜芸社)は興味ある論点を提起している。今井氏は『上宮聖徳太子伝補闕記』や『聖徳太子伝暦』所引の「暦録」が、四天王寺はもと「玉造岸」にあったとする記事に注目して、同寺が戦後(※用明紀二年四月条の物部戦争の後)に守屋の田荘や奴を財政基盤にして建てられていることから、最初は守屋の「難波宅」に創建されたと推定する。今日では、四天王寺の全面的調査の結果、創建が飛鳥時代にさかのぼることが確認されており、その点から右の古伝を否定するのが通説である。今井氏もそれを承知の上で、まず玉造の岸にあって、まもなく現在地に本格的に創建されたことを主張している。…(中略)…同寺が守屋の財を没収して建てられたことを認めるならば、「難波宅」が最初の寺地となった可能性はあるし、この段階で礎石や規格化された伽藍配置を考える必要もない。古伝の四天王寺が玉造岸にまず営まれ、それが守屋の「難波宅」を没収してのものであったとすると、この宅は百済川(平野川)に面しており、内陸への水運と深くかかわった場所にあり守屋の本拠である渋河の地とも近い位置を占める。(『古代の難波』) 

用明天王

 森之宮…(※下の鵲森の項参照)祭神用明天皇 上宮太子の御父帝也。崇峻天皇二年秋七月聖徳太子此地にはじめて四天王寺を興立す。二十五ヶ年を経て今の荒陵山へ移し給ふ。故に此辺旧趾に金堂・講堂・駒が池・大池の渕なといふ字の地あり。(摂津名所図会)

鵲森 今 森宮

 森之宮 玉造森村にあり。委(くわしく)は鵲森(かささきもり)なるへし。日本紀 推古天皇六年夏四月鵲二喉を難波の杜に養しむは則此地也。明応の頃此辺に本願寺御堂あり。信長と和融の後、紀州雑賀に退去す。然れども旧名を呼んて、紀州においても今に鵲森御堂と称す。祭神用明天皇…(※上の用明天皇の項参照)…(摂津名所図会巻三)

玉造 ※JR環状線森之宮駅から玉造駅付近。

 玉造岡 大坂城の南の郷名也。むかし四天王寺を初てここに建させ給ふ時、伽藍の瓦を此地にて造り初めしより此の名ありと上宮太子の本願縁起に見へたり。又本願寺蓮如上人の伝記にも出せり。今、高津の瓦師はむかしの遺風ならんか。(摂津名所図会)

 豊津稲荷大明神 闕郡玉造郷に有。此地の生土神とす。(摂津名所図会)

 玉造稲荷神社(中央区玉造2−3) 神社付近一帯を「玉作岡」というが、その由来は、古代勾玉をつくる玉作部が居住していたからといわれており、それが現在の玉造町名の起こりとなったという。神社の創建は古く、垂仁天皇時代といわれ、昔から多くの人の信仰を集めていたが、豊臣家の崇敬は特に厚く、現在の石鳥居も秀頼の寄進によるものという。(『大阪府の歴史散歩』上) 

白龍池 今 玉造稲荷之境内に有

 白龍池 祈雨の時、忽ち霊験あり。(摂津名所図会、豊津稲荷大明神の項)

石山 ※現在の大阪城のある所。

 大阪城の地にはもともと戦国時代に浄土真宗の総本山であった石山本願寺があったとされる。本願寺中興の祖蓮如が、1496(明応5)年に布教の拠点として「摂州東成郡生玉之庄内、大坂」に石山御坊を立てたことに始まり、…(中略)…やがて、11世顕如のとき、天下統一をめざす織田信長と対立、1570(元亀元)年から前後11年にわたる石山合戦となった。しかし、長期にわたった合戦も、1580(天正8)年、石山本願寺開城により終結、この際寺内から発した火は本願寺全域を3昼夜にわたって焼き尽くしたという。(『大阪府の歴史散歩』上) 

亀之池

生玉社

 …こうした八十島祭と難波との結合関係を考える素材の一つとして、延喜式に摂津国東生郡の名神大社としてあげられている「難波坐生国咲国魂神社」がある。…(中略)…また「難波大社」とも別称されていた。…(中略)…同社は、現在は上町台地西南の天王寺区生玉町にあるが、この地は律令制下の行政区分では西成郡に属する。同社は、もと上町台地の東北端の現在の大阪城の城域内に鎮座していたが、秀吉の大阪城築城によって社地を移したという。延喜式が同社を東生郡の名神大社としている点から見て、この所伝には一定の根拠を認めることができる。(『古代の難波』)

 難波坐生国国魂神社 高津の南にあり。祭神…(中略)…当社は神武天皇紀戊午九月難波に鎮座す。社頭は今の御城の地也しが、明応五年本願寺蓮如上人御堂創建の時やしろを側に移す。其后、天正年中信長と本願寺顕如上人と数ヶ年合戦の時、兵燹(ひょうせん=兵火)に罹て灰燼となる。終に神璽を針て小祠を営む。慶長のはじめ豊太閤金城を修補し給ふ時、今の社地を遷さる。…(中略)…それ当社は祈雨祭式に難波大社と称して…(摂津名所図会)

盤船明神 ※摂津名所図会に磐船旧蹟の項があるが、小橋村にある磐船山のこととしている。

高津ノ社 ※今いうところの高津宮のもとの場所であろう。

 高津社 西高津にあり。例祭六月十八日 秋祭九月十八日 祭神仁徳天皇 但、往古は下照姫命を祭れり。延喜式に比賣許曾神社明神……貞観元年正月授従四位下といふ、是なり。後に仁徳天皇を配祀仁徳天皇仍称仁徳帝廟といふ是なり。中古より比賣許曽と別社に祭り境内にあり。当社の旧地はここより北、今のお城の辺に有し也。天正年中に此地に移りし也 (摂津名所図会・巻四)

熊野一之王子 今の平野町神明

 ※熊野一之王子の現在についてはサイト神奈備にようこそ熊野古道、九十九王子社窪津王子をご覧になったほうが詳しい。

小坂村

十日宿 兎餓野

舟石

渡辺橋 

 大江橋 一名渡邉橋(わたなべはし)。近江川の下流、今の天満橋・天神橋の間に架(わた)す。此時河幅二百六十間余今、川幅狭く成りて三橋を架す。一に天満橋長さ百十五間五尺二に天神橋長さ百二十二間三尺三に難波橋長さ百十四間六尺此れを浪花三大橋といふ。今の堂島の大江橋渡辺橋は後世、堂島を築く時、貞享年中にかくる也。旧名によつて号(なづ)く。(摂津名所図会)

座摩社 今ノ御旅所 

 坐摩神社 船場の中央にあり。延喜式神名帳云座摩神社大月次相嘗新嘗勅願所にて伏見院勅額に難波大社座摩神社とあり。又菅公奉納の真筆にも難波大社とあり。右の勅額は今幣殿に掛る。西成郡の惣社にして往古は一郡一社の神社なれば元来西成一郡の生土神也。祭神…(中略)…抑同社の鎮座は神功皇后十年也。三韓より御凱陣し給ふ時、神武天皇の吉例によつて御船を難波の岸、浮見石のうえによせて神璽を鎮て斎給ふ時賎女、醤を献じければ、祭らせ給ふ。神社の旧地は大江の岸田蓑島今の御旅所。已上社説。(摂津名所図会)

大江の岸 ※古地図の位置は、一般に推定されている場所ではない。普通は摂津名所図会にいうように、八軒屋を指すとされる。

 八軒屋 大江岸又大江浦とも詠り。…(中略)…むかしは大江ノ岸、大江ノ浦といひしも今は京橋筋三丁目四丁目といふ。又八軒の旅舎(はたごや)あれは土俗八軒屋と地名にす。(摂津名所図会)

大江浦 ※古地図の指す場所は江戸時代には既に陸地。


 2001.4.15作成    2008/03/25 更新    地歴探訪 伊勢物語内田美由紀